目的を持った人生をいつも意識することで老後が楽しくなるのではないか?

天気が良いので公園でお弁当を買って食べていた。OLグループや会社員たちも同じ公園内でお弁当を食べていた。なぜか、シニアの男性がポツリポツリと点在して暇そうな顔をしていた。時々、近くにやって来るハトたちを驚かせる罵声を浴びせていた。

その姿を見て、「ああは成りたくないなぁ!」と。

ホームレスのシニア男性なのか、タダの老人なのかは分からない。

老人は誰かに見られているので見た目を意識すべきだ!

私が見て嫌だなあと思う老人男性は、

  1. 見た目が清潔でない風貌(髪の毛、服装、靴、リュックなど)
  2. 突然、大声を出して怒り出す(鳩、猫、犬、人間など)
  3. 昼間からビールやお酒を飲んでつまみを食べながらゴミを散らかす

同じシニア男性として、上記のような行動をする老人は頂けない。如何にも人生は終わっているような印象を周りに与える。余生の使い方で何か歯車が壊れている。そう思うのだが。

公園で一人ポツーンとしている老人は、孤独で可愛そうな人だと思うのだが他山を見て我が身を直すしかない。自分の人生は、自分で作り上げて行く。その結果が自分の運命である。自分の人生を他人に任せて生活をしている人がいるならば、その人の人生は自分の人生ではない。

自分の人生は、自分で考え、行動して作り上げる人生である。

生まれてから定年退職まで社会はある程度の選択路線を用意してくれる。どの路線を行くかは自分次第だ。私を含めて世間が良しとする路線を歩んできたシニアは多い。定年退職後、自分の余生を自分で作り上げる立ち位置になる。

公園で一人暇そうに鳩を脅して時間をつぶす老人の生活をしても良い。何か自分らしいビジネスを始めても良い。趣味を追求した生活を送っても良い。全てのイニシアチブは、自分自身だ。社会でも他人でもない、自分だ。

自分で率先して新しい人生を送ろうとするシニアはどれだけいるだろうか。多くの定年退職者は、65歳以降の人生設計が作れないでいる。友達や同僚の行動を見て、右へ倣えをする人が多い。長年の歯車生活をしていると自分の人生を自分で采配する決断が鈍くなる。

生き甲斐もなく、行く場もなく、時間だけを持て余して公園に一人ぽつんといる老人は、迷える子羊である。自分の人生の舵を取ることに慣れていないと色んな場所で座礁する。座礁した老人は、身動きが取れず、姿も生気がないように見られる。

目的を持った人生をいつも意識するべきだ。年齢に関係なく、目的がある生き方をしている人は、輝いている。誰もが羨ましがる。目的は、大きくても小さくても良い。目的は、その都度生まれて来ては達成され、また、生まれてくる。

人生に迷っているシニアたちに提案がある!

自分が求める余生はこんな余生であると想像する!余生の生活イメージが見えてくれば、あとは、そのイメージに近づくために何をすれば良いかを考えて実行するだけである。これを試してもらいたい。描いたイメージに現在の自分を近づけるという目標が生まれると自然と体が動き出す。