生前にお気に入りの骨つぼを購入するシニア層が増加している

手元供養が高齢化に従って増えている。それに追従して生前にお気に入りの骨つぼを購入するシニアも増えている。購入者の年齢が70歳前後だという。70歳近くになると自分の寿命が短いという事を強く意識してくるのだろうか。

62歳の私には、まだ、その感覚が無い。

自分が他界した後の事を自分は気にするのだろうか。この世界から消えて無くなる=生きている人の意識から消えていく。どんなに気に入った骨ツボに入れられても人々の記憶から消えていけば意味がない。生前の自己満足でしかないのではないか。そんな思いがある。

未知なる世界への旅たち

62歳の私には、70歳を過ぎた高齢者の精神状態が分からない。80歳を過ぎた老人の心理状態もわからない。今朝、電車に乗って外の景色を見ていた。日に照らされた奇麗な風景を電車の中から見れる私は、幸せだ。足が不自由な多くの老人は、自宅の窓からでしか外の世界を見る事が出来ない。

介護ベッド生活を送っている老人もそうだ。体を自由に動かせない状態で命が尽きるのを待っている。そんな老人たちが私たちの目では見えない場所で隠れ住んでいる。老人たちの世界は、若い人たちにはわからない。私が65歳を過ぎて前期高齢者として社会が正式に認知した時点で何かが違ってくるのかもしれない。

65歳を過ぎた人とこんな話をした事が無いので分からないが、心理的に何かが違ってくるのではないか。

60歳、70歳、80歳、90歳という年齢の節目を過ぎながら老人は何を感じて生きて行っているのだろうか。終着点はみな同じ、別世界への旅立ちなのだが。

生と死はこの世界で一番確実で変えようがない現象だ。生と死の間の営み期間は、色々な変化で満ち溢れている。自分が求める物で人生も変わって行く。それによってこの世界にいる時間が短かったり、長かったりする。私は、もう、62年間この世界で生活をしている。これを長いというのか、短いというのかは自分がどう感じるかだ。

生前にお気に入りの骨つぼを購入するシニア層が増加しているというが、骨ツボと一緒に生活をする家族や子孫がどれだけいるのだろうか。多くの骨ツボは、墓の中に入れられるだろう。一度墓の中に入れられると特別な事が無い限り誰も骨ツボを見に来ない。

気に入った骨ツボに入れば、別世界への旅たちの飛行機が豪勢になるというならば私も気に入った骨ツボを探したい。別世界へは俗物を持っていけないので意味がないが。

でも、

自己満足のために気に入った骨ツボを買うシニアは存在している。団塊世代が大量に他界する年齢に近づけば気に入った骨ツボが見つからなくなるかもしれない。団塊世代の人は競争に始まり、競争で終わる宿命にある

手元供養は、どちらかの配偶者が求めたためだろう。自分たちの子供たちが手元供養で自宅に私の骨ツボを置いてくれるとは思えない。配偶者が他界したら、手元にある骨ツボもどこかに埋められるはずだ。埋められた骨ツボも墓が無くなれば、土に帰って行く。最終的には、朽ちる肉体は地球の土に帰る。

私の想像は、誰もが共通して考える事ではないか。未知なる世界を知る事が出来ない私たちだからだ。